top of page
  • 未生流東重甫

「華道玄解」荒木白鳳著 閲覧14

「華道玄解」荒木白鳳著 閲覧14 2021年4月のコラム


今年も早いもので4月を迎えます。3月が卒業、退職といった別れの月なら、4月といえば入社、入学、始まりの月です。新春、正月ではなく、なぜか2021年度の始まり、夢多き生活の始まりです。


この1年は今までに比べて自分の時間を少し持てたのではないかと思います。ただ時間が欲しくて都合をつける時間と、現状の余裕ある時間では、時間自体の持つ意味が違ってきます。例えばですが、車の運転の際、後続車だけでなく前方車にも注意が必要です。自分ではここは危ないからとスピードを落としても、後ろの車から見れば嫌がらせに感じる人もいます。同じ束の間の時間ではあるのですが、心の持ちようでイライラもします。最近の出来事ですが!

心にゆとりをもって大切な時間と向き合うと、僅かではありますが光明が差してくるものです。とはいえ、時間を有意義に過ごすのは難しいことです。


さて、4月になりますと、いけばなの花材も変わってきます。

冬から春にかけてはいろんな種類の花木を見ることができます。3月は季節の草花はまだ種類も少ないですが、4月になりますと、そろそろ草花が店先に彩を与えてくれます。気の早いことに、夏の水草も顔を出します。早速杜若(かきつばた)や太藺(ふとい)がいけばなの稽古にも使えるようになります。

四季咲きの花も多くありますが、やはり季節の花はその季節に出会うのが一番美しいですし、その季節にいち早く見ることができる花が珍しい花であるとは、世阿弥が風姿花伝で述べていた事と同じです。


ところで、「華道玄解」閲覧も今回で14回目になりますので、原文をご紹介する事で、より深く感じて頂けるのではないかと思っています。

NHK文化センター青山教室での講義では、私なりに訳したものを紹介していますが、時代の違いもあることから、少し難しく感じています。とはいえ、文面から何かを感じることが大切です。ここは皆様のご配慮の元、大きな世界へと誘って頂ければありがたいです。


「華道玄解」 『草木原一旋轉の次第』を読み進めます。


 草木は四時の本情に順ひ晨アシタの春に芽を出し。花を開くは一氣の開原なり。其れ自營に春夏の法輪を轉じて、秋冬の菩提に至りて結果落葉を現すは、即ち法徳の理を示し寒時精子根止まるは、還原法を示す。是れ人類が生老病死の狀態アリサマを一歳の中に表現アラワしての理を目前に現す。而して此春夏の次に秋果の基を定むるものな-り。春夏の中旺盛の草木は必ず秋の結果に良種を得。又春秋に衰弱せる草木は秋果に結實するも子根固からざるが故に、再生の縁を斷つ。凡て草木開花の色は千差万別なれども、落花して土の本處に歸る時は、皆虚飾を去りて原色に還る。其形狀性質万別なれども、効用は俱に万物保護の一事に止まる。此の行徳に依て生々世々煩惱欲相の苦患を斷し色身の法界に安住す。故に華道は斯の妙徳を感受して、草木を人倫の師と仰ぐ者なり。


植物の生態に例えて、人倫の道の教えに導いており、まさに華道の心境に至るところです。


続いて「華道玄解」 『人類原一旋轉之教義』を読み進めます。

凡宇宙に存在する万象は、上は人類より下は微塵に至るまで、生死あらざるはなし。唯榮枯盛衰の明らかなると不明なるものとあるのみ。人類は殊に感情強気が故に、生を喜び死を歎き、或は榮ゆるを悦び盛んなるを喜び衰を恨み枯るを恐る。是れ有情の者は略ぼ是の如しと雖も、若し宇宙の眞理を体得せば此榮枯盛衰生滅は、兩氣循環と原一旋轉の理を目前に示す事を知る。自然の大業なる故に、人類の眠りを醒す良薬となる。生は死の因なり死は生に縁たり至善の徳を持て生ずるとも、此世の中に善悪俱に行ふ故に若し死期至りて、冥盲して倦怠する時は、終に善回を斷し悪趣に墮す。極悪業を受持して生まるゝとも、此の生中に善悪を倶に行ふが故に若し死期に至りて悔悟し善を修すれば悪因を斷して、善處に趣く、人盛んなる時は多く盲動し、衰運の時は多く覺醒す。故に盛も喜ばしきに非ず衰運も悲しきにああらず。死も歎くに及ばず。生も亦悦ぶに足らざるなり。實に自然の妙用は車輪の如し。

華道に於て原一旋轉の義を教ふる意は、草木始終の狀態を觀て、人類の正道を悟らしむる所以にあり。而して其本性に歸着せしめ以て人世の本分を盡さしめんと欲する所以なり。

華は草木の花の如きものなり。現世界は宇宙の華なり又果なり。而して人類は万物の華なり又果なり。人類の動作は人中の華なり。人の現身は果なり。是即ち草木の花果の如し。良花能く良果を收め良果能く良芽を生ず、人亦是の如く善良の動作能く善良の現身を修め、善良の現身能く未来の善芽身を生ず。若し善根を斷しざれば、善報次第に增長して止む事なし。凡宇宙間の生物世界は俱に、皆是の如し。此の人類善悪の性相は皆、己れに作りて自から受る者なり。此の善趣の輪轉世界を佛教にて蓮華に譬う。

蓮華は其像車輪に似たり、車輪は即ち輪會に譬ふ。蓮華の中に蓮華あり。此の臺を安乗に地にたとふ。

又蓮は泥中に生じて泥に染まず其体清浄なり。此の泥世を、泥にたとへ。清浄なる善修の堅固心を蓮華に譬ふ善修の行徳に依て趣く處を、極楽世界とす。極楽世界は即蓮華なり最善修の行徳に依て土品上處の善果を得んとする者也。(土品上處は上品上處ではないかと思う)上品とは最上種を指し上處は即ち最淨の高位を指す。最浄は即ち蓮臺を指す、是の蓮臺は蓮華の中眞にして、其の善身再生の種因を含む。故に佛教の教義も亦原一旋轉の意を含むものなり。然らば此の教義最後の目的は、所謂人類の最上位を得るにあり。人類の最上位は則師の位となり。此師の中に亦位階あまたありて限りあらず。皆己れの善修の度に應じて、旋轉して次第の上位に進むものなり。若し倦怠にして善修を止むれば、次第に下位に退きて師位を失ひ終には人位をも、失ふものなり。教義の要點は即此の所に在す。


      世の中は上り下りの分れ道

              火車も法車も乗せて行らむ


火車とは家財を以つて造る車。即ち金銀珠玉の寶財也法車とは法財を以つて造る車。即ち文章經典の智財也此の兩車は其廻る途を異にす。火車は陽道をを廻り行て。動搖常に激しく、法車は陰道を廻り行きて靜に進み動搖少し、而して兩車の行く道異なると雖も其着する處は一所也。現世界には此火車と法車とが俱に充満せり。本來人の現世に生れ來る時皆俱に平等の体を受け。終る時も又平等の容姿にて終る。智者も、愚人も、貧人も、富者も、皆俱に裸にて生まれ來り。裸にて終るものなり。假りに生家の地位が異なると雖も此の地位は、終生、己れの身体に添ふものにあらず。生家は假りの旅宿なり。車の止まり休む處なり。運命を支配する神は此の善悪の諸行を具備する人種を、其度に應じて此宿所に假りに止むるものなり。

人世は、此の車に乗り旅行しつゝあるものなり。人の一世は旅人の行路の如し。人の行く目的地の里程の遠近に應じて、或は半日に到着するもあり。一日に着するもあり。或は二日三日五日十日に着するもあり。然るに車の宿り止まる事は一日の中に幾度もあり。此の休處にて車を乗違う事もあり。故に七分進みて車の止まる爲に引きもどさるる事もあり、度々乗り違ふ時は其爲に、終日を暮し其目的地に着せざる者も多くあり、亦一度乗ると雖も其車を厭ひて、自途中に乗りかはる爲めにまた日を過ごして達せざる者もあり、靜に安泰する人は却って、到達する事も早し。火車は其形美麗なるが故に是を好む者多し。然れども此車廻る時は動搖激しき爲め惱乱して、憍慢の病を起し。驕奢の病を生し、或は次第に慾念を增して終には、車より振り落とさるゝ事あり。

法車は形地質素にして美ならざる故に是れを好む人は稀也。然れども靜に回轉なすが故に、乗る人惱乱する事なし。時を過ぐるに従ひ心靜となり。智識を增す故に目的の地に達する事早し。然れども始めて乗るときは靜なる回轉にて進む事遅きが故に、倦怠して自ら車を捨つる事多し。法車とは文章經典能く智識を增す。故に識力は自然の眞理に明徹す。故に能く正道を守りて天地の教へを背かざる故次第に人類の本道に歸着す。火車とは貨財能く人を驕奢に堕さしめ。慾念を增し憍慢の心を起し、煩惱の業火次第に燃焼して止む事なく終には人類の本道を誤まらしむるに至る。

宇宙には此兩財充満せり。 而かも兩財を求むる者には質に應じ、度に應じて何れか其一つを自在に與ふ。

然るに常人此の理を知らずして智を求めんと欲して、而も火車に乗し、貨を求めんと欲して却って法車に乗る。故に其意を果師さずして終るもの多し。

人は皆、天地の質自定まる。質に相應せざる事は行ひて其功あらず。而も是れ常人の自ら知る事能はざる所なり。是の理を教示する者は則ち師なり。なり。故に人類の中師位を得る者は最高の位に居すものなり。

華道は即是の師位を得可き修行なり。草木は無識にして而も是の理に随ふ。。故に常に天地の教へに曾て違ひたる事なし。唯天地の大用を補ひて、生物の保護する事を主とし更らに私なし、故に華道を教ふるに此草木を教材となすものなり。


人の生きる道を教授し、導く事が師としての役目であると説いています。世の人々はこの言葉を聞いてどのように感じるのであろうと思います。自戒を込めてですが、とりわけ挿花を教授している人たちへの言葉であると解釈しています。


次回は「挿花原一旋轉の法式」を読み進めます。

最新記事

すべて表示

「華道玄解」荒木白鳳著 閲覧37

2023年6月のコラム「華道玄解」荒木白鳳著 閲覧37 初夏の草木が、思い思いに陽差しを楽しんでいる様な景色が、私の心を和ませてくれます。春を待ちきれず花を咲かせる椿、初春に静かに咲く梅、春の暖かさにつれ満開の花を咲かせる万作や山茱萸、そして何より古代から親しまれてきた美しさの代表の様な桜と、美しく咲く花は沢山ありますが、山の木々がこれほど楽しそうに見えるのは1年を通してこの時期が一番ではないでし

「華道玄解」荒木白鳳著 閲覧36

「華道玄解」荒木白鳳著 閲覧36 2023年5月のコラム 今年の春は色んな物が賑わいを増してくれました。毎年桜は特に賑わいを感じます。人恋しい訳でもないでしょうが、人が集まると我を忘れてしまいます。これは若さということにしておきましょう。しかし、万葉集には詠まれていませんが古くは田の神の御座所とされていた桜の満開は日本の美意識を培ってきた一面もあります。上から眺める桜の景色は心躍る景色であったの

bottom of page