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未生流東重甫

2月の花:椿(ツバキ)


2018年2月の花 椿(つばき) (特別講演 「根津美術館 百椿図に寄せて」より)

東京都港区の根津美術館では毎年この時期に「百椿図(ひゃくちんず)」という絵巻物を展示しています。この展示にちなみ、いけばな分野からの“絵の解釈”と“作品例”について表現する会を催すことになりました。百椿図は、いけばなが成立する前に“絵”の世界でですが“花の展示による表現”がなされた作品であり、今回講演をする機会を頂き、改めてその斬新さに驚いているところです。

 この百椿図のいくつかの作品にみられるとおり、椿と庶民との関わりはかなりあったのではないかと推測されます。なお、いけばなの起源と椿の関わりは古く、いけばなが形として存在した平安時代頃より適当に瓶にさして楽しんでいたようです。  その後、民俗が神の依代(よりしろ)としての植物と仏教の供花として中国より伝来したものと合わせて、鎌倉時代から南北朝そして室町時代に至る間に基本的な形が表わされ、「いけばな」が形成されることになります。 花の名前は、古事記(712年)や日本書紀(720年)にも出ており、蓮や百合、椿、桜、藤が登場します。古事記に椿は五百箇真椿(ゆつまつばき)として下巻(しもつまき)に2か所長歌の中に登場します。ただし、この時代は瓶にさす花ではなく、また観賞する雰囲気の物でもありません。 万葉集(783年大伴家持)に草木は4500種余りある歌の中の約3分の1、その中で椿は「椿」「都婆伎」「都婆吉」「海石榴」の名で9種あります。 根津美術館の百椿図は17世紀初期から17世紀中期に完成したとされます。江戸時代も安定期に入り、将軍自ら収集栽培に励み、これが椿の一大ブームとなり、結果多くの椿の種類を生みだすことになります。この百種以上の椿を美しい絵に残し、その時代背景を推察させる大きな役割を担っている百椿図であり、花器とみなしていろんな物が描かれてはいます。しかし、当時のいけばなの時代背景を考えると、上述のとおり、これを「いけばな」とするのは少々厳しいところがあります。

以上のとおり、百椿図はいけばなの様式をより早くから取り上げていたことを物語っています。約100年後(1750年頃)に出てくる生花や投げ入れの先駆として多種多様の様式を投げかけている歴史的な作品だと思います。

<いけばなと椿> 椿をいける時、まず幹の木肌の美しさ、葉の濃緑の艶やかなところ、そして何より季節感が大切です。この季節は冬と春に二分されるのですが、冬の椿は特に幹を意識し、春の椿は花の美しさを観ます。

未生流では、花を守ろうとする葉を霜囲い(しもかこい)の葉といい、1枚が花に傘をさすように花に対して裏を向けて覆うようになります。また、花のすぐ下に対生する葉がありますが、この葉をはさみ葉と呼びます。この3枚の葉が大切な役目をしています。百椿図の絵もこの3枚の葉を描くことで椿の特徴を表現しているようです。

いけばなの椿も寒い時期には必ず霜囲いと挟み葉はいける様にします。冬のあまり花が咲いていない時期は枝の動きと、葉の艶やかな濃い緑、花の美しさの釣り合いをとりながら表現します。自由に動く幹に、花1輪、葉は3~7枚程度にして小さくいけるのも良いです。大きくいける時は、葉の美しさを表現するために適当にさばき幹が見えるように葉数を減らし、裏葉は除きます。花数は少なくても霜囲いと挟み葉を何か所か挿ける様にします。冬の椿は、特に白玉椿(しろたまつばき)が応合われることが多いです。未生流の伝書でも応合いは白玉椿とされることが多くあります。誕生の花、紙置きの花、袴着の花、元服の花、厄年の花、家名続目の花、入院(じゅいん:僧侶が寺に入り住職になる、後に転じて一般人の隠居の意)など他にも多くあります。八千代の白玉として芽出度いとされた白玉椿はお祝いごとに重宝されていました。なお、白玉椿は花の種を表す固有名詞ではなく、白い一重の花のことで、玉ですから咲く前の花です対して春の椿は葉の美しさに加え、花の咲き誇る姿も楽しめます。多めの濃い緑葉の間に散りばめた赤い花が優雅な世界を醸し出します。 冬と春、それぞれの季節でそれぞれ異なる表情の椿を楽しみながら、作品を仕上げていければ良いでしょう。

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