「華道玄解」は私が生まれた頃に再版された著書で、華道未生流 荒木白鳳氏によるものです。
未生流の伝書を読んでいくと、色んな所で疑問を覚えることがあります。自分で古書を求め、他流の古書や伝書をも含め読み取ってみて、自分なりの考えを持たなくては次に進めません。この玄解を手に取った時も同じだったかと思います。そして「いけばなの心」の世界に導いてくれたのがこの玄解だったと思います。今思いおこせば、「いけばなの心」を感じさせてくれた最初の著書でした。
いけばなはいけるところから始めますが、まずは天地和合の完成された三角鱗(さんかくうろこ)を基本とした形に、そこに天地人の枝を当てて、花姿を整えます。
季節ごとに季節の花との出会いがあり、新鮮な思いで花に向かうことが大切です。そこから進むにつれて五行格や横姿等と花姿の違いを習いながら技術向上に努めます。それでもいけることが主体で、なかなか「いけばなの意味」までは辿り着きません。または、そういう時代であったのかもしれません。
早速ですが、今月は序文を読んでみたいと思います。再版されたのが70年ほど前になりますので、少し読み難い箇所や時代背景での言葉もあります。したがって、理解しがたい記載もありますが、その時代を思い読み進んで頂ければと思います。以下、引用です。
「夫挿花之道は天地自然の理に随順して万物の和合を圖る事を以って本意とす。
而して挿花の法に因て万物生花之理を究めて以て人倫の要路とす。
即斯の道を華道と謂は、華は万氣美精の発露を表し、道は則是宇宙之大道也。
而して陰陽自然の定理を、唯一瓶の挿花に據て悟は、実に斯道にしくはなし。
草木の、朝に一花開きて天下の春を示し、夕べには一葉落ちて事物の終わりを告げ、斯之栄枯盛衰は是の一木一草に據て明示さる。
草木の花は即万気の化神なり。故に華道に於ては、此花を以て人倫の導師と仰ぐ物なり。又万物の和合を図らんと欲せば、草木四季の動静に順じて事を理し是に違はずんば天地自然の妙理に契ふ故に成就せざる事なし。
亦合に和合と結合之別あり、和合は慈悲心より生ずる自然の合なり、結合は欲心より来る人為の盲合なり。和合に據て或る事は堅固にして滅せず、時には一度離散の事ありと雖も忽ちに帰合す。譬へば草木の秋に落葉して春来れば茂る事、雲の聚散あるに異ならず。盲合に據て成る事は一度離散する時は、再び帰合なす事難し。例へば器物の一度破損しては再び原の形地に帰らざるが如し。宇宙之森羅万象悉く此和合の徳に依て其像を存す。故に華道に於いては、斯三才和合に随順して諸事を律す。
三才和合の道は、則治平の基なり。凡国政、家政皆俱に此三才和合の理に随順して事を律せば、必ず安泰に治まらざるなし。又身心の修養にも此理に準じて和合を基に為せば、心の花長へに開きて散乱せず、諸人の親愛を得る事、恰も草木の花を万人が之を賞するに異ならざるなり。己が身も一切の苦患を忘れ、さながら、常に仙界に遊ぶが如し。
実に三才和合の徳、則華道の妙徳は俱に斯界を益する事、言語筆紙に書し難し。
斯道に遊ぶ者此妙徳の偉大なる事を、能く勘考す可き者也。」
(玄解 序文より)
1897年(明治30年)小原雲心が大阪で「盛り花30瓶」と称して展覧会を催しました。それから盛花、投入れなどが多く見られるようになり、1930年(昭和5年)にはいけばな様式の中に新花が制定されました。このように明治中期から昭和の中期にかけて新花が発展を遂げ、戦後間もなくから前衛いけばなが会場いけばな芸術として一世を風靡し、今までの格花とは違い自由な発想の中での作品所謂造形作品が多く創られました。つまり、近代挿花の波が押し寄せて来た時代に荒木氏は生きてこられ、そしてこの時代の流れにいけばなの危機感を覚えられたのではないかと推察します。
そして、挿花を試みる皆さんへの警告の意味で「人倫の道」としての挿花を説かれたのではないでしょうか。伝承の花である格花を、見直すきっかけとして「華道 玄解」は必至な思いが感じられます。
時代の流れが伝統の文化をも変化させてしまいます。経済も70年か80年のサイクルでまわるといいます。いけばなの文化も例外ではなく、見直す時期になったのではないかと感じています。この時代であればこそもう一度華道の意味を学ぶべきではないでしょうか。
日本の独特の文化を学ぶ人は幸い少なくはありません。日本の文化を世界に誇れる文化として伝承していきたいものです。
4月のコラムから「未生流伝書 三才の巻研究資料」を読み進めていきますので乞うご期待ください。
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