3月の節句といえば、桃の節句=雛祭りと連想する方も多いかと思います。旧暦の3月3日が桃の花が咲く季節であることから「桃の節句」と呼ばれていますが、京の貴族階級の子女が天皇の御所を真似た御殿や飾り付けで遊んで、無病息災を願ったのが「上巳(じょうみ)の節句」の始まりだと言われています。 「月と日」を「陰と陽」と考え、その陰と陽の数が重なる日を「めでたい」として現在定着している3月3日が節句の日として定着しましたが、元々は上巳はその字の如く陰暦3月最初の巳(み)の日が節供であったようです。この日に中国では河のほとりに男女が集まり、厄災を祓う「上巳の祓い」という行事が行われていました。また、この時期に河で子供が遭難する事が多く、身代りの人形に穢れ(けがれ)を移して河や海に流したとされています。 中国の文人たちは、河の上流から盃(さかずき)を流して自分のところに流れてくるまでに詩を作るという「曲水の宴」を催したのですが、この催しが3月3日に行われ、やがて日本にも伝わり、日本書紀に485年3月に宮廷儀式の1つとして催した事が記されています。現在、京都でも城南宮の曲水の宴が有名ですが、川の流れのある庭園で詠み、流れてくる杯が自分の前を通り過ぎる前に歌が出来ないと罰としてその杯の酒を飲み干すというもので、流觴(りゅうしょう)などとも言います。京都御所内や明日香村でも行われていたらしく、今は京都上賀茂神社や大宰府天満宮などで催されているようですが、開催日は3月3日でも、3月上巳の日でもないようです。 上述のとおり、元来は男女の区別なく行われていた桃の節句は、江戸時代以降「雛祭り」として庶民にも定着し、女の子の節句とされました。節供はいつの日からか祝日とされていますが、元はその時期の厄除けの日に当たります。特にこの時期は水難の多くあったため、身代りに紙や草で作った人形を流したことが今では流し雛として残っています。 現在も白酒や桃の花弁を浮かべた薬酒を飲み、草餅を食べて祝うと同時に、厄払いをしているのですが、実際に厄払いを意識されている方は少ないかもしれません。 <上巳の節供と未生流いけばな> 表の巻口伝書によりますと、「三月節句の花は桃の葉を愛して入るべし、咲きたる花は皆落として入る(中略)八重の桃は禁ず、八重には毒ある物なり、一重は薬也。(後略)」とあります。伝書「三才の巻」には、「上巳には桃一色を挿ける。この様子は桃の若芽を愛し、(中略)尤も花は一重を用う。八重は無用。」と説明されています。 上巳と季節の関係が桃の新芽を愛でるようになったのでしょう。新暦では桃の節句には桃が咲いていますので明るいピンクの桃の花をいければ良いように思います。 なお、一重の花をいけます。
未生流東重甫