「華道玄解」 荒木白鳳著 閲覧12
2021年2月(令和3年)のコラム
前回までのコラムでは「風姿花伝」(世阿弥)などから引用して「いけばなとは」を考えてみました。華道玄解の云う「人倫の道」「教え」の大切さを感じ得た事と思います。
昨年は挿花と云うものの在り方をもう一度考える好機に恵まれたような気がします。
今年こそは形を創るいけばなから人を創るいけばなへと進んでいきたいと思います。そんないけばなの在り方について、いけばなを志す皆様が求めるならばより有意義ないけばなになるのではいでしょうか。技術も知識も求められて教える事は、教えられて習う事に比べ数倍身につく物です。室町時代(戦国時代)、16世紀半ばに活躍していたという池坊専応の言葉から一文を紹介します。
「瓶に花をさす事いにしへよりあるとはきゝ侍れど、それは、美しき花をのみ賞して、草木の風興をもわきまへず、只さし生けたる計なり」(池坊専応口伝より)
いけばなが未だ成立していない時代に、「いけばなとは」を説いた言葉がこの口伝書にあり、花に対しての考え方をいけばなとしてどのように変化すべきかを述べています。花に対する精神の持ちようにおいて、関心はほとんど花の見た目の美しさにあり、その客観的外面的な美しさを受容的に賞して瓶にさしただけで草木の形や姿のおもしろさやその組み合わせからくる趣向にも開眼していない、というのです。それではなるほど花を愛し花を嘆賞してはいても、未だ真に花や草木に心を寄せているとは言えません。
「世上の人々、そこかしこの森の花がいついつさくへきかと、明暮外に求めて、よの花紅葉も我心にある事をしなす、只目にみゆる色ばかり楽む也」(専応録より)
400年過ぎた現在も変わらない情景を思い浮かべます。このコラムを書いている頃に丁度紅葉シーズンに差し掛かりました。京都を初め多くの名所は人で賑わう事でしょう。まさにその様を含め専応は述べています。紅葉狩りは昔森に探しに行った様な所から「狩り」と名が付けられたと聞きます。今が盛りと色づく紅葉も、人並みに揉まれて進む有様は滑稽という感じがします。
専応曰く、「この一流は、野山水辺をのづからなる姿を居上にあらはし、花葉をかざり、よろしき面かげをもとゝし」という時は、従来のいけばなの精神であり、ただ鑑賞する花や草木にも風興をわきまえた意味の「花の心」である事をのぞんでいるのであろうと思います(注:挿花秘伝書を参考とした個人的見解です)。
未生流では、形に挿ける初伝「三才の巻」では最初に格を決めて、材料をこの格に合う様に用います。中伝「体用相應之巻」では、材料自らの持つ美を活かして、挿花と呼ばれるものを花材に即して形成します。つまり、花材により一々姿は変わり、姿の変化自由なるべしと云うのが体用相應の花であるということです。さらに言い換えると、初伝の三才格を充分習得した後、体用のいけ方が出来るのです。「性情の両氣を専らとし、花形では花材そのものに格を発見して、終始花材の示すままに隨う事になる」のです。そして一段進むと形と技術、花材の美、自然と花材の表現へと進んでいきます。
「体用相應之巻」の考え方はいけばなを性と情で説明しています。性情とは体用のことであり、つまりは体用のいけ方のことです。この体用は三才格五行格の体と用ではありません。いわゆる主と従の関係のことです。
体とは、天を謂い、地を云ふ 用とは地を謂い、天を言ふ 相應とは、両氣の循環を云ふ(荒木白鳳)
まずは自分の思いを充分表現できるべく訓練します。そして「いけばなとは?」を問いかけます。
「華道玄解」から『原一旋轉之巻研究資料』
夫れ華道に遊ぶ人多しと雖も、道を窮むる人希なり。唯草木個々の形状を論じ、其生ひ出づる個々變体を以つて草木の本性と覺認して、草木の形狀を知るを以つて、華道の本旨なりと誤信し、万法の根元たる斯道の原理を悟らず。草木不思議の妙徳を感受為さず、末枝の挿花術を以つて人心を慰むるを、華道なりと信じ、斯道の根本義を滅却する人多し。流祖は斯道を以つて人倫の正道を教ふる爲めに、道を創立す。草木は陰陽の兩氣消長四時循環の氣候に應じ、五行の氣を等分に受るが故に、無始自り、盡未来際に至るまで、旋轉して止まず。宇宙の大用を受持す華道は、草木未生の妙徳を感受し、是の理に順應して万物未生の原理を悟了し、人徳未生の精華を開き、万法一如の妙則に依て、自然の妙用を補佐し、人類の本道を守り終には、神人不二の妙果を得しめんと欲するものなり。
万法は一より起こり旋轉して原の一に歸納す。一氣は開動して万象を化造し旋轉して原の一に歸還す。
是の旋轉の法輪を、即ち華道と云ふ。旋とは即法なり。法は即ち華なり。轉とは即輪なり。輪とは是道なり。
原の一氣は即ち眞なり。眞即理なり。利は是れ慈なり。慈は即利なり。利は是れ宇宙の華なり。華は是れ法なり。法は是れ万物を利す。故に一氣の慈悲心開動して、万物を化作
し、慈の妙華は万物を利益す。故に一原開顕自ら歸納の中道。是れ即ち華の世界也。而して人は万物の華なり。万物とは衆生なり。衆生の中に眞の性情を具備爲は人也。性情兼備するが故に、天地の情を感覺す。故に天地の大用を補佐す。万物の質性を推察して是れを交易す。故に万物を利益す。故に人は万物の華なり。宇宙の華也。華は中道に處す。故に人の道は中道也。此故に華道を中道と謂ふ。故に人の正しきは慈の一念より起こり慈、の妙華を開き万物を利益し、悲の本處に歸納す。是れを佛道には無上菩提とも、如来とも佛とも謂ふ。華道に於ては神人と謂う。佛道は未來の淨化の道を教ふる事を先とす。其の最後の歸着は一處なれども、一は陰を主とし心を先に教へ、一は陽を主として体の行を教ふるを先とす。然れども心身一元にして水波の如し心正しければ、体自ら正しき道を行ふ。体の行ひ正しければ心は自ら正しくなる。原一旋轉*の理如斯也。
いつの時代もいけばなを哲学的に説いている書がありますが、今挿花に携わる人にとって有意義かどうかは受け取り方で変わると思います。しかし、哲学ではなく自然な生活の中に「いけばなの真意」を学び「人倫の法」に接する事ではないでしょうか。言葉にすれば難しいかもしれないが、決して難しい事ではないと思います。
例えば、未生流には「禁忌二十八箇条」というものがありますが、これは花に例えた人倫の法とも言えます。よく考えると、常々我々が生活している中で通っている道に過ぎません。いけばなを心の糧と思える様になるために、まだまだ学びたい事が多くあります。
「花をいけるのに、手先の技術は是非必要なものである。洗練した技術と云うものなしに立派な生花はでき得ない。しかし、技術はいつもその人の心の表現をよくするための技術であって、どんな場合にも先行するものは心であって手ではない」(鋏だこ)勅使河原蒼風はこの様に述べて、心が手先の技術に優先することを説いています。
技術優先のいけばなで、心が置き去りでは「いけばな」の甲斐がない気がします。
来月は上述*の草木原一旋轉の次第について説明をしていきます。
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