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未生流東重甫

「華道玄解」 荒木白鳳著 閲覧30 

「華道玄解」 荒木白鳳著 閲覧30 2022年10月のコラム


 「華道玄解」の著者である荒木白鳳氏の言葉は、昭和時代以前に創流された流派の伝書や秘伝にも出てくることであり、現代の常識では差別用語と言われるかもしれませんが。読んで頂いている諸氏の寛大な心で当時を思い解釈して頂ければありがたく思います。未生流の伝書の一文でも、町民百姓と高貴の方との一種の差別が出ていますので、当時の流れとして受け止めていただけると幸いです。


荒木白鳳氏の人物像はあまり定かではありませんが、「華道玄解」を読み進めてずいぶんと経ってしまいましたが、このタイミングでどのような人物なのかを少し紹介します。今の華道未生流二世家元広誠斎后甫の弟にあたる人ではないかと思われますが、定かではありません。かなり深く学んでいたようです。そして、嵯峨御流の華務職であった辻井弘洲との交流があったようで、辻井氏の回顧録に名前が出ています。広誠斎とは未生流五代家元の斎号と同じですが、なぜ同じ広誠斎であるのかも、また定かではありません。未生流と華道未生流との流れは同じかも知れませんが、伝書の教えは少し違うようです。ただし、同じ未生流華道という道を紐解くことにおいての違いは無く、この玄解で述べられていることの奥深さに敬服します。


花の道を説くにあたり、歴代の先哲が残した名言・名句が多くありますが、この玄解を読み進んだ後、そんな言葉をもう一度噛み締めたい思いがします。


「花を挿ける技術は心を表現するにおいて大変重要です。しかし表現するのは心です。その心を磨くことが無ければ技術はただの上手く形にいける事だけの道具に終わってしまう」。


誰が言ったかどうかわかりませんが、華道に必要なのはどちらが大切とは言えない関係である気がします。立華の精神として「立華の錦木」に次のように説かれています。


「唯図を以て則とし稽古をなせし花 ハナに八 九はその花形たるや浅し 口伝には達すといえども 自然と奥浅くなる 此れその失なり」


私自身が教えの中で最近よく口にする言葉ではありますが、「形だけを追ういけばなでは、いけばなの精神から些か遠のく」様な気がします。

いけばなから得る物の大切な要素が忘れ去られていては、花道の魅力が半減します。200年以上伝え継がれてきた歴史ある文化がさらに200年続けるためになすべきことは何かを考える好機かもしれません。自然淘汰されそうな時期に直面した問題を解決するだけでは、200年の歴史が哀しく置き去りにされてしまいます。それはだけは避けなくてはなりません。今一度、そして今の時代にそぐういけばなの原点を求める必要があるように思います。


“物の値打ちは人が決める。しかし人はまやかしを好む、自分に取って喜ばしいことを好む。本当の値打ちは自分自身の心でしか無い”。


仏教や儒学、そして花道にしても求めるところは精神ではないかと思います。


前置きが長くなりましたが、今月から華道とは何かを根本から説いてくれているような書「華道玄解」の『妙空紫雲の卷參考資料』に進みます。ここでは、妙空紫雲とは何であるか、妙・空・紫・雲・妙空・紫雲と細やかに説明をしてくれています。まずは読み進むことで、その内容たるやを感じられればと思います。


『妙空紫雲』

妙とは四智円満の妙体萬物 自然の法体なり萬法不可思議の妙用也。如是の法体は本來人法を以て思議すべからず。聞法に依て是を知るべからず。亦傳道の及ぶ處にもあらず無我の法觀を解し。無作の正道に住し無心の念願を開き。無限の眞空を觀ぜば無作の妙法に依て自然の妙体空中に明々たり


空とは是則諸法の實相 萬法一切の住處なり如是の空性は本來。色に非ず。非色に非ず。形に非ず。非形に非ず。円に非ず。方に非ず。近に非ず。遠に非ず。去に非ず。來に非ず。有に非ず。無に非ず。茫々たる眞空是則萬物微密の實藏たり一切法性此處に秘藏す。

不可思議の藏扉、亦開に非ず。閉に非ず。無上の世學力に依而藏扉開く事能はず。金剛の鎚も是を破る事難し。黑金をとろかす猛火も此れを焼く事あたはず唯慧智寶鎚を以て向ふ時は藏扉自ら開示す


紫とは則無上の法色を譬う如是の妙色本來色のして色に非ず。青に非ず。黄に非ず。赤に非ず。黑に非ず。亦世の紫に非ず。萬氣和合の發露する救世円滿の法像。是則妙色の本來なり。如是の妙色は凡眼の視力の及ぶ處に非ず。人智を以つて推測する處に非ず。自我の妄見を斷除し。寂静淨潔の床に安住し無上法眼開き遙かの眞空を望めば無上の妙色空中に明々たり


雲とは是れ妙鏡に譬えふ 鏡裏に本來色像なし外因に倚て無限の色像は現はす。外因を遠離せば鏡中飛鳥の跡なきが如し。雲性本來象色ある事なし。氣綠の聚合に依て雲相を化作す。黑白青赤雲色の非ず。人我の妄見迷妄して是れを雲色と斷見す。花し*正しく見解せば雲色を觀じて。白日眞空の如しと謂はん。如是の雲相觀。正學の推測する處に非ず。凡眼の視る處に非ず。無我の道法を了得して。神人一致の境界に住する者。等しく是雲相を悟了す。雲色の化相は神旗の如し。神旗の示現は世相變易の警告なり

*:「若し」誤字ではないかと考えられます。



紫雲は慈の妙徳。和合力を以て雲鏡に示現す。是則紫雲の妙色なり。是れを人界最上の瑞祥となす。是れ妙空不可思議の作用。則紫雲の本体なり。

神佛聖賢慈悲の爲の故に道を開き。世人は欲の爲に學を修し道を求む是れ世上の常なり。故 に世の學人博識なりと雖も。自修の學毒に遮られて。反て眞理を遠離す。修學の道若し慈悲の觀念を斷除せば、寧學ばざるに如ず。


今月はここまでとします。

「伝書妙空紫雲」から妙空紫雲とは何かを紐解くことは中々難しいですが、玄解はその意味まで説いています。考え方、捉え方は人それぞれではありますが、学ぶとは言葉を鵜呑みにする事ではありません。玄解では何を言わんとしているのか、又何を学べば良いのかは己個の方向性にあると思います。


いけばなは姿かたちだけを求めるものではない事は確かです。

来月は「妙空紫雲の卷參考資料」から『妙空紫雲』の続きを読み進んでいきたいと思います。我々いけばな家が考えなければならないことを、絵師相阿弥(1500年頃)は未生流創流の300年も前に「義政公御成式目」に次のように説いています。


「唯花瓶をよく見て、此花瓶にはいかやうに可立(タツベキ)やらんとあんじ、よくよくたくみすまして立なり。このいはれを能々見て初心を忘れずあたらしきこゝろを持た寸ズ、人の面のごとく十瓶あらば十瓶 百瓶あらば百瓶かはりてしかとあるべき所に、目のあるべき所に、鼻のあるべき所に、口のあるやうにして、さすがにおもしろくしほしほ敷あるはあたら敷く見えておもしろく候。物の下手ははじめてあるすがたをおもしろく思召候によって、目のある所に口をつけ、鼻のある所に目を付けるこゝろによってかさねて見久しく見候へばみさめ仕候也。心を初心にもって花瓶毎につつしみて可立也。(以下略)」


別の「仙伝抄」には下手とは稽古の足らざる人と説明があります。全ての人の面に特徴、個性があるように、挿花も同じ形を挿けても、そこには挿け手の感性や個性が十分現れる。それがいけばなの個性です。「物珍しさを求めては挿花から遠ざかる」とはよく言ったものですが、伝承の格花もまた時代相応の美が表現されているものです。自戒を込めてになりますが、「どの時代においても手先の技術が先走っている。姿かたちの美を求める事に誤りはないと思いますが、それはあくまで初歩の段階であって、いけばなの本来求めるものからはほど遠い。強いて言うならいけばなの心を学ばずに植物本來の美を求める事は難しい」ということです。

これは、造形や新花といった時代相応の花にも十分大切な考え方だと思います。未生流二代家元未生齊廣甫の和歌、俳句として紹介されているものを最後にご紹介して今月は筆をおくこととします。華と語り合える日がくるのはいつのことやら!


“ ものいはぬ 草木をつねに ともとせよ  やがて心と 華や咲らむ”

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