「華道玄解」 荒木白鳳著 閲覧10 2020年11月のコラム
いけばなの花材を見ると、日本の情緒を醸し出すような優しい佇まいの秋草、そして木々の彩りの移りゆきに秋の深まりを感じます。今年のコラムは、図書館での閲覧が許されている中から選んだいけばな資料を読み進んでいますが、原文を紹介しつつ、その内容からどのように感じていただけるかを楽しみに進めています。
いけばなについて話す際、いろいろな古書から紐解くことが多くあります。
10月は世阿弥(室町時代末期の能楽者)の秘伝書である「風姿花伝」(1400年成立)からよく耳にする一文である「秘する花を知ること」を紹介しました。世阿弥は、「風姿花伝」の他にも、「花」に例えて「至花道」「花鏡」など何冊かの秘伝書を残しています。能の芸でいう「花」であり「華」に例えてであるようにも思いますが、いけばなでは元来「華」ではなく、「花」でなくてはならないように思います。当然、観せる側と観る側があることには違いありません。
観る側の心を読み取り、心安らぐ花を挿けるのが挿ける側の技量であり、おもてなしの心が必要となります。そして、美しく挿けるとは、華美に挿ける事では決してない事を忘れてはいけません。そのためにも技量を上げるのはもちろんですが、自然を知り、花を知り、心を養う事はそれ以上に大切なことです。
先月に続き「風姿花伝」と「花鏡」から諸芸に、特にいけばなに深く関わる一節を紹介します。
「風姿花伝」第一章の二 (少年期)
「さりながら、この花は真の花にあらず、ただ時分の花なり」と説いています。
“しかしながら、この少年期の花は「真に花」ではない。単に「時分の花」(一時的な魅力)にすぎないおのだ。
そうした「時分の花」があるために、この時期の稽古は、一切やすやすと達成できるのである。
したがって、この時期の巧拙(こうせつ。上手と下手)は、当人の生涯の能の善悪を決定する事にはなり得ないであろう。基礎的演技を大切に育てなければならぬ。“
教えとはどの道においても通じる事があると思います。挿け花では、少し技術力が上がるとすぐに基本を忘れがちです。様々なことを学びたいという気持ちは理解できますが、基本が中途半端では自分の花にはなりません。猿楽だけに限らず、諸芸に対し言い当てた言葉ではないでしょうか。
「風姿花伝」第一章の四(青年期)
「この時期を「時分の花」の盛りの「初心」期とし、うぬぼれる事の危険を警告する。」
“この若さの花の開く二十四、五の頃こそ「初心」と言うべき段階なのに、もう奥義を極めたかのようなに本人が畝ぼれて、早くも猿楽の正道からはずれた自分勝手な行動をし、大成した名人のような演じ方をするのはまことにあきれはてたことだ。「時分の花」を「まことの花」と思い込み心が真実の花ひいっそう遠ざかる心がけなのだ。若さ故に人の目が「許す」「持ち上げる」心理を真に受け、自分が花である錯覚を起こすことが有る。真実の花になるためには、この時期に「初心」を忘れてはいけない。“[A1]
誰の心にもあるであろう、「あの人は上手い」とか「あの人には花がある」といった思いが伝わると、より向上する人と態度が変わる人が残念ながら存在します。これに警告するかのような一文が「花鏡」にその奥伝に次ぎのような記載があります。
「此三ヶ条の口伝在り、是非とも初心忘るべからず。初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。此三句能々口伝すべし」
この「初心忘るべからず」の言葉は、常々耳にする言葉ではありますが、勝手に一人歩きしている節もあります。何かを志すとき、必ず口にする言葉でもあり、すぐに忘れ去られる言葉でもあるようですが、諸芸を志す者にとっては特に大切な言葉です。
いけばな未生流においても伝書「原一旋轉」の解義に以下の記載があります。
(前略)その大意を述べると、三才の理法、体用相応の用法が、更に転じて原一に帰することを示すのであって、三才五行の花格と言い、体用の挿し方の変化と言うも、要は自然の摂理と一致し、示された形の中に永遠の姿を観ようとする者である。原一とはその初めに帰ることであって、発展して行ったものが再び初めに帰ることによって、常に根元と結びつくのである。(以下略)
初心に返ることとは少し違うが、常に前だけを見ずに一度足下を確かめるようにとの思いは同じではないでしょうか。同じ文も2度3度と読み返すと自ずと深みを増すものです。
さて、先月の「華道玄解」は、「体用相應の巻研究資料」から“人類体用相應の義”を読み進みましたので今月は“草木体用相応之事”と“華道体用相応之事“を読み進みます。
『華道玄解』 「草木体用相応之事」
草木は無意識ながら、天地の道に順應して背かず、大用をなす。故に神佛、之を愛し。鬼神之れが用を補け、人類是を悅び、之れに依て利し、禽獣是を好み、是に依つて命を保つ。然れども、草木かゝる高徳を具すと雖も、其体不動にして、自ら用を勤む事少なし。故に人類草木の用を補く。華道は、殊に是れをを主とす。而して草木の体は、少陽の性にして其相形限りあらず。
其用は生物の救命を主とししかも其需要種々に亘る。草木の用種々ありと雖も、大別すれば用法二途なり。一は生中に於て用を果し、一は生を捨てゝ其用を果す。開花、結果、密林は生中の用なり。
食料、薬種、建材、燃料、資材等は、捨性の用也。此の用皆人類の依て果す。而して華道は草木生中用を主として輔く。故に草木の捨性の大用を妨げざる心得肝要なり。種体に應じて主用誤らざるを相應とす。
「華道体用相應之事」
華道の体は。悟道。知恩なり。
用とは。報恩。助動なり。
助動は則法なり。此法が斯道の主要とするところなり。
此の弘教の法を花術に據つて行う。是れ体用相應とす。
「花術体用相應之事」
◎花術修習に就て其体と爲す可き者六義あり
教義、禮義、供献、裝飾、互樂、悟道、
此の六則が花術修行の主要たる處なり。
教義体の用は、初傳に示す天地自然の教理に依る法則を以て、草木の枝幹を假りて一つの法形を作り是れを以て陰陽循環の道。三才和合の理、虚實等分の理、人類和合の理、修身の道、齊家の道、衛生の道、万物活用の義を示す事を主要とす。草木個性の質を多く論ぜず。唯草木の美性を應用るのみなり。
禮義体の用法は、諸式禮祭の用具たる事を主とす。故に草木の品種を撰み、格を守り、毒種亦技巧を用ひず、他の飾り物と。調和を持ち、其禮祭の主意に反せざる事を肝要とす。床の主たるは、軸物たり。次に、花亦は香爐、次に置物なり。
供献体の用は。神佛高貴に献納、又は靈祭諸弔の供なれば草木の美性と、人類の赤心を、兼て供献する事主とす。故に品質を撰み用を専一にし。徒に我意の技巧を用いず草木自然の姿を主として用ふ。時に應じて格花を挿とも、陰陽の格花を主とす。三才五行の格花は人類の教花也。
裝飾の用法は普通来客舉應、常の床飾、宴席諸式場、店頭の飾りにて総て美觀を添ふる事を主とす、故に草木の品種亦は花格等は論ぜず、唯色彩の配合を主とす。機に應じて、格花を用ひ、或は核のなき花を用ひ。或は草木の性を活用し、或は草木の性質を捨て、色用ふる事あり。要は他の配合物の缺點を補ひ、美觀を主とす。
互樂の用法は、會席、競技、獨樂等を主とす故に或は技を競ひて、格を調べ或は草木自然の景色を模し、或は他の器物、軸物等と合せて、種々の景色を現はし、諸人の快感を催ほさしむる等を主とす。故に草木の質性を論ず時と論ぜざるあり、品種は何にても用ふ。要は術の練習と智能の試練なり互樂は互誤樂なり。
悟道体の用法は草木の美性を感受する事を主とす。故に草木を挿くるに非ず。或は花色の陰陽備ふるを見、或は花形の形狀に依而見、或は全体の形狀に依つて感じ、亦は生地の狀態に應じて、同種の草木が、異狀をなすを見て觀し、自然の動作に依て、万物と互に氣の通ずる原理を感得するを以つて、花術悟道要用とす。是れ則華道に入るの關門なり。草木の一花一葉のの働き、落花落葉枯幹の狀態、皆人類指導の姿なる事を會得するは、花術最終の要用也。
今回はここまでとします。
読んで頂いた皆様が、この言葉の内容をどのように感じられているでしょうか。
時代相応とはいきませんので理解に苦しむところはあるかと思いますが、幸い漢字は意味を伝えてくれますので何かしらを感じ取っていただければ嬉しいです。
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